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【特別編】石の曲線美!鹿児島と熊本をめぐる石造アーチ橋の旅 -石匠 岩永三五郎の足跡を辿って-

地域の魅力発見!*特別編*
肥後銀行と鹿児島銀行の経営統合により誕生した九州フィナンシャルグループは、おかげさまで2022年10月に7周年を迎えました。
その地盤である「熊本」と「鹿児島」に共通するエピソードの1つに『石橋』があるのを知っていますか?
今回は熊本と鹿児島をつなぐ石造アーチ橋の魅力について、石橋造りの名工「岩永三五郎」の軌跡とともに「地域の魅力発見!*特別編*」をお届けいたします。

日本の石橋の9割が集中する九州

鹿児島県立石橋記念公園「西田橋」

日本には石造りの橋、いわゆる石造アーチ橋が約2000基以上(※)現存しています。その内約9割が九州にあり、その多くは熊本、鹿児島、大分に集中しています。
※橋名が不明なものも含みます。

その技術の流れは、室町時代に遡り、中国や朝鮮、そして南蛮(西洋)の影響を大きく受けますが、日本の石造アーチ橋の確固とした技術が確立したのは江戸末期から明治にかけて。同時に日本での石橋架設(建設)の最盛期を迎えます。
その確立した日本の石橋造りの卓越した人物と位置づけられるのが「岩永三五郎」です。
今回は、熊本と鹿児島をつなぐ岩永三五郎の軌跡を辿りながら石造アーチ橋を巡る旅に出かけます。

岩永三五郎とは

熊本県美里町 「雄亀滝橋(おけだけばし)」 三五郎が手掛けた県内最古の水路橋(用水橋)。現在も現役で役目を果たしている。 この後の通潤橋架設に大きな影響を与える。

三五郎が生まれ育った八代地域に現在広がる八代平野は、その3分の2が江戸時代から250年もの間21期に分け行われた干拓事業によって生まれました。
三五郎も八代の干拓工事に従事し、苗字帯刀を許されるほどの実績を上げます(1821年、28歳、第8期)。石工(いしく)としての卓越した技術で大きな効果をもたらした三五郎。それ以降、継承された技術により八代の干拓事業はより大きな規模で行われるようになります。

後に薩摩藩からの依頼を受けるのですが、それもシラスにより地盤が弱い薩摩から干拓事業で培った技術が見込まれてのこと。1840年頃、三五郎は肥後の石工10数名と薩摩入りをします。
改革によって財政難から脱却した家老 調所広郷(ずしょひろさと)によって招かれ、直属の指揮者 海老原清熙(えびはらきよひろ)、大工頭の阿蘇鉄矢とともに石造アーチ橋はじめ干拓、埋立、治水、排水など多方面で活躍するようになります。

「甲突川五石橋」の西田橋、高麗橋、玉江橋が移設復元されている 鹿児島県立 石橋記念公園

石橋記念館と西田橋

三五郎によって鹿児島市を流れる甲突川(こうつきがわ)に架けられた玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の5つのアーチ石橋は甲突川五石橋(こうつきがわごせっきょう)と呼ばれ市民に親しまれていました。
1993年(平成5年)8月の豪雨により武之橋、新上橋が流失したことから残った3橋(県が西田橋、市が高麗橋、玉江橋)を移設・復元したのがこの地です。
石橋の架橋技術や当時の歴史を知ることができる「石橋記念館」が併設され、「石橋記念公園」として開放されています。
保存されている3つの石橋はすべて実際に通ることができ、橋越しに見る桜島が絶景です。

甲突川五石橋 現存する3つの石橋

西田橋

あの篤姫も輿入れの際に渡った西田橋。参勤交代の行列が通る、まさに城下の表玄関を飾るにふさわしい藩の威光が誇示された橋です。

高麗橋

かつてこの橋が架かっていた周辺には、明治維新で活躍した西郷隆盛、大久保利通らが暮らした町があったそうです。緩やかな曲線が上品。

玉江橋

五石橋のうち最後に架けられた橋で、一番上流に架けられていました。上流で川幅が狭かったため、ちょっと小ぶり。庶民的な感じがします。

三五郎の故郷 熊本・八代市、“石工の郷”として日本遺産に認定

八代市 旧郡築新地甲号樋門(きゅうぐんちくしんちこうごうひもん)

かつて全国で築かれた石橋がいまも300基以上残されている熊本。その石橋の多くは、八代で生まれ育った石工たちによって手掛けられたとも伝わっています。また、干拓事業においてもその技術で大いに貢献をしました。

八代市には、現在46基の石造アーチ橋が残っており、小さくて素朴な石橋が多いのが特徴。
八代市の架設のほとんどは公共事業ではなく、民間事業でした。地元の住民が生活や農作業で必要だったため自分たちでお金を出し合ったのです。堅牢さは保ちつつ、必要最低限の石橋が求められたのがその所以です。

八代市おすすめの石橋3選

笠松橋

通潤橋を手掛けた橋本勘五郎が架けたと伝えられる、東陽町を代表する最も大きな石橋です。これからは紅葉も見頃に。

赤松第一号眼鏡橋

八代市で架けられためがね橋の中では珍しく、装飾性に富んだめがね橋。束柱(つかはしら)には、やかんや湯呑みの装飾があります。

鹿路橋

渓谷に架けるめがね橋で、八代に存在するめがね橋の中でも比較的大きな橋。草の生え方に風情があります。

まとめ

当時、三五郎は大変な厚遇を受け精力的に仕事をこなしますが、この実績は、調所や海老原を背景とした薩摩藩の経済力、組織力があり、現場では大工頭 阿蘇鉄矢をはじめ、多くの鹿児島の石工の支えあってこそのものでした。
三五郎の立場は、その技術はもちろんのこと、指揮・管理、設計・図面の製作、人の調達、資金など広範囲に及びます。言わば、いまでいう大手ゼネコン的役割に人徳があってこそ成し得た偉業とも言えます。
ただ、小数の計算が苦手で、計算、測量は鉄矢が助けていたそうです。
そんなエピソードを思い浮かべながら、縁の石橋を訪ねてみるとまた違った感慨があるかも知れません。

「石橋」を共通点に昔から繋がりのあった「熊本」と「鹿児島」。
これからも私たち九州フィナンシャルグループは、九州をつなぐかけ橋として、地域の産業や自然・文化を育て、守り、引き継ぐことで、地域の未来の創造に貢献してまいります。

【取材協力】
鹿児島県立 石橋記念公園
鹿児島県歴史・美術センター黎明館
八代市経済文化交流部 
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【参考資料】
土木史研究 第17号 我が国の石造アーチ橋の発展と岩永三五郎、阿蘇鉄矢の事跡

最後までご覧いただきありがとうございます。次回もお楽しみに!